21'07"21: ナッドサット話法とルビ文体

 

今週、キューブリックの『時計じかけのオレンジ』を見直さなきゃいけない用事がある。そこで買ったまま本棚の一部になっていたアンソニー・バージェスの原作を読み始めた。

タイミングが見つかった時(たとえ薄い繋がりであろうとも)に結びつけて読んでかないと積読が無限増殖していくことは経験から知っているのだ (積読の増殖は依然進行形)

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原作の『時計じかけのオレンジ』は序盤から映画版を超える無軌道な暴力の応酬で面食らう。

挨拶でもするように女の服を引き剥がし、中年男性をリンチしていく。

それでも読んでいて楽しいのは、アレックスらが話す「ナッドサット」話法のおかげだと思う。ナッドサット話法はロシア語混じりの架空スラングで、「ハラショー」「デボーチカ=おんな」「ドルーグ=ともだち」などなど様々な用法がある。

映画版でも印象的な話法ではあるのだが、文章として読むとこのヘンテコな話しぶりがなんとも気持ちいい。しかもこれは原語よりも日本語翻訳だからこその快感かもしれない。

ある程度、本を読み慣れてる人なら「本を頭の中で読み上げる」読み方から「文字を目で追う」という読み方へ切り替えていくケースが多いと思う。筆者は一度の視点で1〜3行程度しか認識できないが、凄い人になると視点を合わせるだけで1ページ丸々読めたりもするらしい。

こういう「脳内音読み」読法と「視覚認識」読方の両方を経験してきた人なら共感していただけるかもしれないが、ルビが付いている文を読むとき変な感覚になりません?

視覚情報と音読みの情報が乖離してしまい、いつもと違う読書になっていく、それが筆者にとってはとても快感らしい。

それに乾信一郎訳『時計じかけのオレンジ』で気づいた。

ナッドサット話法がまさしくそれなのだ。

例えば「デボーチカ」という単語に「おんな」というルビが振られている。

この場合「視覚認識」読法を駆使すれば「デボーチカ」と「おんな」の二単語が脳に入ってくる。だが「脳内音読み」読法で読み上げると、その単語はふりがなの「おんな」という読み方になるだろう。

読書家が無意識に行なっているこういったプロセスを瞬時に通過すると、この単語の視覚情報は「デボーチカ」でありながら音情報は「おんな」と認識される。つまり、乖離しているはずの二つの単語が、一つの単語として違和感なく統合される。

このルビ文体は漢字、ひらがな、カタカナと、文字バリエーションの多い日本だから成立する感覚だろうと思う。アルファベット文化だとルビって成立しないんじゃないかな?少なくとも視覚情報と音情報の分離・統合は起こり得ないと思う。

こういう素敵なルビは、ウィリアム・ギブソンなどの翻訳でお馴染みの黒丸尚が最も優れたものと世間は言うだろうし、自分もそう思う。

ただ黒丸文体は漢字×カタカナの組み合わせなので、視覚と音の統合に少々のタイムラグが生まれてしまう。理解するために少し脳を動かさなきゃいけない。

その点、『時計じかけのオレンジ』における乾信一郎のナッドサット翻訳は、視覚と音にタイムラグを感じず、当意即妙、まるで日常使いしているような違和感のなさで脳に飛び込んできてくれる。これがハラショー気持ちがいい