プロミシング・ヤング・ウーマン【千文字レビュー】

f:id:issee1:20210729153949j:plain

 

かつて「(未来を)約束された女性=プロミシング・ヤング・ウーマン」だったカッサンドラは夜な夜なディスコで男たちへ復讐をする。そんなクソったれな男たちに一矢報い、アソコがヒュンッとなる想いをさせるリベンジ・ムービーだ。女性はスカッと痛快に、男性は大量に冷や汗をかくのでタオルを持っていった方がいい。

 

ここ数年でフェミニズム映画は山ほど作られており、この作品もその潮流のど真ん中にあるわけだが、作り手たちは「現実をどれだけ反映させるか」のバランスに毎回苦慮し、繊細な配慮をしているように思える。そのバランスの取り方において、この『プロミシング・ヤング・ウーマン』は突出している。

女性でも人種でも、デリケートな問題を扱う場合、難しいのは「エクスプロイテーション」にするのか、しないのかという判断だ。例えばジェンダーの問題を扱う場合、『チャーリーズ・エンジェル』のように男たちをなぎ倒していく映画にしてしまっていいのかという問題だ。もちろん、そういう映画は痛快で楽しく、実際に苦しんでいる人たちには希望を与えるだろう。だが、その作品をもって現実になにか働きかけることは難しく、リアルタイムの問題解決には繋がりづらい。

 

 

この作品は「現実に即した範囲でのエクスプロイテーション」を実現している。そのせいで、現実を描くにしては浮世離れしたように、エクスプロイテーションとしては地味に感じる人が出るのも仕方ない。だが、その狭間を的確に射抜いたバランスにこそ、この作品の凄さがあると思うのだ。

 

その繊細なバランスを見事に体現して見せたのがキャリー・マリガンだ。観客はカッサンドラは30歳であるという設定こそ与えられるのだが、画面だけ見ていると彼女がいったい何歳なのかわからなくなってく。シーンによっては20歳のようにも見えるし、別のシーンでは老婆のように老け込んでも見える。キャリー・マリガンの演技、そしてメイクアップや照明によって、カッサンドラの容姿年齢は心情とシンクロして移り変わっていく。女性の晒されるルッキズムを逆手に取った演出であり、カッサンドラの心情も表現し切る見事な一手だ。

 

結末は、エクスプロイテーションとしての痛快さと、一方であまりにブラックな後味の悪さも残す。彼女の戦いは痛快さと共に、男に制裁を加えるためにはこれだけの犠牲を女性は強いられるのか。彼女の犠牲の分だけ、社会は男性側に傾いているのだとわかる。