ミークス・カットオフ ケリー・ライカート特集【千文字レビュー】

 

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『ミークス・カットオフ』はケリー・ライカートには珍しく非=現代劇。それも西部劇だ。

西部を目指してやってきた入植者の一行。三組の夫婦・家族が馬車を引きながら茫漠たる荒野を渡り歩いていく。案内人を務めるミークという男は明らかに怪しい。彼が2週間で着くと言っていた道のりは今や数週間へと延び、依然として着く気配もない。「コイツ、道に迷ってるんじゃないか?」そういった疑念が一行の頭によぎっている。

 

「ケリー・ライカートが描く西部劇」と聞き、『リバー・オブ・グラス』でしたような「男性的とされてきた映画ジャンル(例えば犯罪映画、西部劇)」を女性的視点で解体する作品なのかと思いきや、良い意味でいつものフォームを崩さないケリー・ライカートらしい映画になっていた。

 

西部劇とはいえ、ただ登場人物の生活洋式や衣服がそれを担保しているだけで、作中には西部劇らしい家の一軒も出てこない。ただ見渡す限りの荒野が広がるのみ。

一行はこの荒野を右往左往と彷徨い続けていく。

目的地がどの方角にあるかさえも覚束ない旅の最中で、もちろん物資は減っていく。乾いた荒野において水の枯渇はそのまま死活問題だ。

 

「一寸先は闇な現実」「ジリ貧な生活」と、要素を取り出せばライカートが繰り返し描いてきたテーマではあるのだが、西部劇というジャンルに当てはめたことでそれらが象徴性を増して浮き上がる。荒野は「死なない程度に残酷な現実」をそのまま表し、その中で手持ちの物資と精神を切り崩しつつ生活する彼らは、ライカートが現代アメリカの郊外で描いてきた人々と相違ない。

 

『ミークス・カットオフ』はそんな見通しの悪い生活の中、誰を信用して身を委ねるべきかを語っている。怪しい案内人を切ったところで問題解決には繋がらない、かと言って自分に道がわかるわけでもない。完全な男社会の中でで声が大きかった男たちが不能に陥っていく中、ミシェル・ウィリアムズ演じるエミリーは信用すべき相手をしっかりと見極め、男たちが根負けするほどの確固たる意思でそれを信じ切る。

「誰に身を委ねるか」こう書けばとても政治的な話にも思えてくる。旅の一行という最小単位のコミュティもまた社会の象徴なのだ。

そんな象徴性も含みながら、ライカートはあくまで自然主義的に、とある女性の両手を広げた範囲で起こる出来事として作品を仕上げてしまう。そのミニマリズムな態度にこそライカートの凄味はあるのだ。