【千文字】ドント・ルック・アップ - とても笑えるんだが、俺たち笑ってる場合じゃないんでねえの?

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アダム・マッケイという作り手が大好きだ。彼の作品は知的で、悪辣で、義憤に燃えていながらもバカバカしい。年の瀬にそんなマッケイの新作がNetflixで配信された。

 

リーマン・ショックの内幕を描いた『マネーショート』、元アメリカ副大統領ディック・チェイニーを主役に据えた『バイス』と、2作続けて「笑えない実話」の映画化に挑んだマッケイだったが、今度は「半年後に巨大な彗星が地球に衝突するとわかったら、アメリカはどうなる?」という完全フィクション映画だ。

それによって事実関係に基づくという制約がないだけ自由度が増し、コメディの比重が更に増幅している。一方で前2作にあった「説教臭さ」要素は減退してもいるので、より万人が楽しめる作品になっているはずだ。

 

しかし、アダム・マッケイが義憤に駆られた怒れる映画作家であることに変わりはない。彼のやり方は、現代社会を鋭く分析しそこに潜む真実をコメディにする。その結果「笑えるんだけど、これって笑ってる場合なのか?」という、笑いと一緒に生じるある種の危機感、居心地の悪さ。

アダム・マッケイの映画は、鏡の中に映る自分の顔を見て笑っているような気分になる。彼のコメディは王様に仕える道化師に近い効果があるのかもしれない。映画の中の人々の愚かさを笑うことで、自分たちの滑稽さにも気付かされる。外面は甘いが、奥には苦い薬が隠されているのだ。

 

「巨大隕石が地球に衝突!」ってのは『アルマゲドン』や『ディープ・ブルー』みたいなハリウッドらしい世界規模の危機だ。ただ、その世界的危機を徹底的に茶化す姿勢で近いのは『マーズ・アタック!』あたりかもしれない。ただし、『ドント・ルック・アップ』は現実社会をシュミレートした果てにたどり着いた帰結なので、そこらのバカ映画より格段とタチが悪い。

「現実的に考えみた結果、アメリカは利権やら何やらに足を取られてアルマゲドン級の愚策しか取ることができないだでしょう」とハッキリ言い放つこの映画を見ていると、笑いながらも暗澹たる気分になってくる。少し前なら「そんなに酷くはないっしょ」と笑っていられたのかもだが、コロナ禍を経験して「アベノマスク」なんて愚策オブ愚策を目の当たりにした我々は笑ってる場合ではない。そもそも笑う権利すらあるんだろうか?

 

この薬はゼリーに包んだりして飲みやすくなってはいるけど、味はとっても苦い。

だけど、飲んどいて損はない薬です。 ←Just 1000

【千文字】GUNDA / グンダ - 躍動する生命、人工的な画面。牧場という条件付きのユートピア

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母ブタ グンダと、その子供たち。この作品は牧場で暮らす彼女たち親子の生活を、一切のナレーションもなし、モノクロームの映像だけで紡いでいく。

映像と音だけに全てを託すストイックさがありながら、振り返れば全てが緻密に計算されていたのだということもわかってくる強固な構成。そして、なにより「豚の生活」というありふれた題材で、生命とは、社会とは、生とは死とは、までこうも雄弁に語ることができるのかということに感動してしまった。

このヴィクトル・コサコフスキーという監督、只者じゃない。

 

もちろん写し出される映像にはグンダたちの「生の躍動」が溢れんばかりに切り取られている。画面を走り回る子ブタたちと、それを見守る母の視線それだけで動物ドキュメンタリーとして強度は十分だ。

それを文句なしに美しいモノクロームの映像で撮影されている。とにかく美しい。

 

そう、少しこの作品は美しすぎる。

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【千文字】マトリックス レザリクションズ - 乗り気じゃない続編をそれでもなぜ創ったか

 

※多少のネタバレを含むので鑑賞後を推奨します。

 

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そもそも「18年も月日が過ぎた今、マトリックスの続きを作る必要があるのか?」という疑問があった。その答えは「NO」だ。わざわざ大金かけてまで作る必要はなかっただろう。

 

だが、この『レザリクションズ』は一風変わった標本としてとても興味深い。

筆者は、その点においてこの作品をとても気に入っているのだ。

 

この作品の珍奇さは、まず創造主たるラナ・ウォシャウスキーがあまり乗り気じゃないという点から生じている。ネオ・トリニティ・モーフィアスたちの物語はトリロジーで綺麗に完結しているし、その続編が無用の長物だと一番自覚しているのはラナ・ウォシャウスキーなのだ。そういった意味では、むしろ信頼できる作り手だと言えるだろう。

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【千文字レビュー】ミラベルと魔法だらけの家 - 地味さは否めないけど、堅実な良い小品

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Disney+が日本でも本格展開を始めて好調子なディズニー。しかし劇場公開・配信限定のいずれにしても、オリジナル作品の影が薄くなってきているのだけが心配だ。

 

『ミラベルと魔法だらけの家』だって特に質が悪いというわけでもないのだがイマイチ話題になっていない。たしかにキャッチーさに欠ける地味な作品であるとは思うが、とはいえ天下のディズニー。質はいつも通り高水準を保っている。

 

コロンビア奥地にある魔法の地エンカント。そこに住む魔法の一族マグリドル家と魔法の家。

その一族で唯一魔法の力を与えられなかったミラベルを主人公として据えたのは、バイロン・ハワード&ジャレッド・ブッシュの『ズートピア』監督コンビだ。

「能力を持つがゆえに生じる期待」や「家を守らねばという責任感」、いわばプレッシャーという呪いに縛られたマグリドル家の人々を、ミラベルの“ありのまま”なディズニー的態度が解きほぐしていく。

そこに付け加えて、この作品は時代と共に変化していく「強い女性」の在り方についての物語でもある。家族を守るために強くならなければいけなかった祖母。それに対して、弱さも含めて自分自身を肯定する強さを持ったミラベル。そんな2人の衝突と和解を通して、紡がれるマグリドル家の家族史。そこに内戦続きの歴史を持つコロンビアという舞台設定も効いてくるのだ。

 

この「家族」の物語を描くにあたり、あえて舞台を家の中だけに限定する姿勢に作り手たちのストイックさが垣間見え、好感が持てる。スケールを広げるのではなく、各キャラクターの内面を掘り下げる方向で物語に密度を与えるのは、至極真っ当なアプローチだ。

 

一方で、小さく堅実な作りがゆえに、あと一歩盛り上がりきらない作品になっているのも事実だ。内面を掘り下げる内向きな作品ではあるので、クライマックスも爆発にまで至らずアッサリ風味で終わった印象は拭えない。

 

アメリカ本国での最大の売りは、『ハミルトン』はじめとして破竹の勢いのルイ=マニュアル・ミランダが音楽を担当している部分にあるだろう。

ただミランダの特徴ともいえる楽曲のヒップホップ的な節回しは、日本語吹き替え版だとやはり対応が難しい。吹き替え版も良かったし頑張りは見えるのだが、楽曲に関しては日本語の語感では限界が見える。真の価値を判断するには原語版も見なきゃかな…。そのうちDisney+に入ったらまた見ます。

 

02'11"21 山椒大夫, 厨子王と安寿

溝口健二監督の『山椒大夫』を見たので、森鴎外の原作も併せて読んでみた。40頁ほどの短編なので手軽く読める。

 

母と安寿、厨子王の姉弟が人攫いに襲われ一家離散となるところから、山椒大夫の荘園を脱出するまでだけに焦点を絞ったコンパクトな作り。映画では最大の見せ場となる母との再会も、エピローグとして簡潔に語られるにとどまる(簡潔が故に最終数行の威力は凄まじいのだが)

 

ここで気になるのは、溝口が行った原作からの設定改変についてだ。森鴎外の『山椒大夫』も、彼が当たったその原典も「安寿と厨子王」なのだ。安寿が姉であり、厨子王はその弟ということになっている。「厨子王と安寿」なのは溝口健二の『山椒大夫』だけである。

 

この設定の改変は、作品の核心に迫るような大きな変更に思える。安寿が姉か妹かによって物語の意味合いは全くもって変わってくる。

厨子王が弟である場合、彼は無条件に一番の被保護者になる。姉の安寿が多大なる犠牲を払ってまで厨子王を生き延びさせようとするのも「弟だから」というだけで説明がついてしまう。

 

だが、溝口はあえてその設定を崩す。

溝口健二の『山椒大夫』における安寿は、あまりに良くできた、献身的すぎる女性に見える。一方の厨子王は荘園での強制労働を内面化してしまっいる割とどうしようもない人物になってしまっている。一般的な尺度で言えば、元の設定の方が腑に落ちやすい話にはなっているだろう。たが、こう設定を改変したことで、溝口作品に頻出する男女の関係がここに浮き上がる。

 

溝口作品における女性は、人格が完成されていて過度なまでに献身的。そして、そのせいで割りを食って悲劇的な結末に至ってしまう。

一方の男は基本どうしようもない存在で、女性の犠牲を目の当たりにしてやっと独り立ちできるようになるのだ。

 

ダメな兄・厨子王と、できすぎた妹・安寿はまさに溝口健二らしい兄妹と言うことができる。

森鴎外の原作との決定的な違いはここだ。

 

DUNE デューン 砂の惑星【千文字レビュー】

 

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フランク・ハーバート著『DUNE 砂の惑星』。

ハリウッド長年の悲願であり、特大級な曰くつきの事故物件である。

やるからにはハリウッド最大規模級の予算が要るこの一大叙事詩。そこへ、そろそろデヴィッド・リーン症候群を発症し始めているドゥニ・ヴィルヌーヴが参加したことで遂に念願の再映画化が実現した。

 

ヴィルヌーヴが熟達した映画の作り手であることに異論はないし、これまでの仕事から真面目で律儀に題材へと取り組む人だということも知っている。
その予想通り、今回の映画化は全然悪くはない! 

 

キャスティングは原作遵守な上で現状考え得る最高のメンバーを取り揃えている。

ポールにティモシー・シャラメジェシカにレベッカ・ファーガソンなど「それ以外考えられない!」配役に加え、完全カッコいい枠のダンカン・アイダホにジェイソン・モモアを当てる気概、教母役にシャーロット・ランプリングという配役まで全方位的に完璧。

そしてもちろんIMAX撮影された圧倒的な映像の数々が、有無も言わさずアラキス地へと没入させてくれる。この暴力的なまでの映像圧は、DUNEという叙事詩にぴったりだ。

 

そんな調子で失敗作ではない。ただし期待に沿う作品だったかは別である。

リンチ版と同じ轍は踏まぬと、三部作構成を取った判断は正しい(だがそれでも尚ダイジェスト感が付き纏うのは考えものだが…)その一方でビジュアル面の面白味は半減、どころか消滅したと言っても過言ではない。完全にSF的創造力は死活してしまっており、迫力は凄いが薄味な映像が続く。例によってヴィルヌーヴ印の色彩抑えめでグレーな画面ルックを採用しているのもどうだろう。この低体温な画面のせいで、水一滴も命取りという過酷な環境への実感は損なわれる。「砂の惑星」って映画でそれは致命傷だろうよ。

 

また、原作が「映画化不可能」と言われた真の理由に直面したように思える。なにもDUNEは長大なだけで映画化が難しかったわけではない。実際は、ポールの予知夢と現実が絶え間なく入り乱れる構造こそが最大の問題点だったはずだ。その点に関しては絶対に何らかの工夫が必要だった。

だがヴィルヌーヴは元来それをさらにこねくり回しがちな作家でもある。そのせいで幻視シーンは原作既読の身からしても輪をかけて抽象的になりすぎだ。
その感覚をもってヴィルヌーヴらしいとも言えようが、今回ばかりは「難解」ではなく「混乱」しか生じていない。

007 ノー・タイム・トゥ・ダイ【千文字レビュー】

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ダニエル・クレイグほど、ジェームズ・ボンドという男に苦しめられてきた俳優はいないだろう。同時に彼ほどボンドと向き合い続けた男もいない。

 

クレイグ=ボンドは初めから批判の的だった。『カジノ・ロワイヤル』で6代目ボンドに就任した際も「ブロンドのボンド」やコワモテな風貌から、イジメにも近いバッシングを受けた。ダニエル・クレイグはその度に、自ら身体を張ったアクションと有無を言わさぬ演技力でそんな批判を退けてきたのだ。


Amazon Prime ビデオにあるドキュメンタリー『ジェームズ・ボンドとして』を見ると、007シリーズを率いてきたバーバラ・ブロッコリマイケル・G・ウィルソンらプロデューサー陣が『カジノ・ロワイヤル』時点ですでに「007はこのままではいけない」という危機感を持っていたことがわかる。

白人男が、女を取っ替え引っ替えしつつ、悪い意味でイギリスっぽい植民地主義的な態度で暴れ回る。そんなジェームズ・ボンドというキャラクターは明らかに現代的な価値基準からは外れている。なんなら今だと悪役として置かれてもおかしくないくらいだ。そんなボンド・イメージの刷新という任務をクレイグ=ボンドは担っていた。

 

世間的に求められる「ジェームズ・ボンドらしい」態度と、そのボンドを延命するための現代的なアップデート。その間に立たされていたダニエル・クレイグは、まさに引き裂かれるような思いだったはずだ。

そのためか、ダニエル・クレイグジェームズ・ボンドという同一視はあまりできなかった。ダニエル・クレイグジェームズ・ボンドへチューニングを合わせていて、ダニエル・クレイグの素顔とジェームズ・ボンドには乖離があるのだろう、と。

 

そんなダニエル・クレイグも『ノー・タイム・トゥ・ダイ』で卒業となる。

そして完全にクレイグ卒業シフトで作られたこの作品で、初めてダニエル・クレイグの人格と、ジェームズ・ボンドが一致したように思えたのだ。

たしかに従来のボンド像からは外れて、ボンドらしくはないだろう。その辺の凡庸なアクション・ヒーローと変わり無くなってしまったかもしれない。だが、ダニエル・クレイグは今まで十分にボンドを全うしてきたじゃないか。最後の作品だからこそ、ダニエル・クレイグという俳優の素顔に、ジェームズ・ボンドの方から歩み寄れたのだ。

ダニエル・クレイグは、その最期にしてはじめてジェームズ・ボンドと対等になった。(←Just1000)