02'11"21 山椒大夫, 厨子王と安寿

溝口健二監督の『山椒大夫』を見たので、森鴎外の原作も併せて読んでみた。40頁ほどの短編なので手軽く読める。

 

母と安寿、厨子王の姉弟が人攫いに襲われ一家離散となるところから、山椒大夫の荘園を脱出するまでだけに焦点を絞ったコンパクトな作り。映画では最大の見せ場となる母との再会も、エピローグとして簡潔に語られるにとどまる(簡潔が故に最終数行の威力は凄まじいのだが)

 

ここで気になるのは、溝口が行った原作からの設定改変についてだ。森鴎外の『山椒大夫』も、彼が当たったその原典も「安寿と厨子王」なのだ。安寿が姉であり、厨子王はその弟ということになっている。「厨子王と安寿」なのは溝口健二の『山椒大夫』だけである。

 

この設定の改変は、作品の核心に迫るような大きな変更に思える。安寿が姉か妹かによって物語の意味合いは全くもって変わってくる。

厨子王が弟である場合、彼は無条件に一番の被保護者になる。姉の安寿が多大なる犠牲を払ってまで厨子王を生き延びさせようとするのも「弟だから」というだけで説明がついてしまう。

 

だが、溝口はあえてその設定を崩す。

溝口健二の『山椒大夫』における安寿は、あまりに良くできた、献身的すぎる女性に見える。一方の厨子王は荘園での強制労働を内面化してしまっいる割とどうしようもない人物になってしまっている。一般的な尺度で言えば、元の設定の方が腑に落ちやすい話にはなっているだろう。たが、こう設定を改変したことで、溝口作品に頻出する男女の関係がここに浮き上がる。

 

溝口作品における女性は、人格が完成されていて過度なまでに献身的。そして、そのせいで割りを食って悲劇的な結末に至ってしまう。

一方の男は基本どうしようもない存在で、女性の犠牲を目の当たりにしてやっと独り立ちできるようになるのだ。

 

ダメな兄・厨子王と、できすぎた妹・安寿はまさに溝口健二らしい兄妹と言うことができる。

森鴎外の原作との決定的な違いはここだ。