ウェンディ&ルーシー in ケリー・ライカート特集 【千文字レビュー】

f:id:issee1:20210728205039j:image

木漏れ日の中、木の棒を投げながら歩く女性と、それを走ってとりに行く犬。
緩やかなドリー・ショットで切り取られたその光景は、幸せに満ちている。

ケリー・ライカート監督の『ウェンディ&ルーシー』はそう始まる。

ミシェル・ウィリアムズ演じる女性がウェンディで、その愛犬がルーシーだ。

お金も、家もないウェンディは、愛犬ルーシーとオンボロな愛車と共にアラスカへ向かう放浪旅の最中にいる。だが、オレゴンの田舎町で、愛車がエンスト。生活費は底を突き、苦肉の策で万引きをしたペットフードが見つかって留置所に。数時間後に急いで帰ってみると、繋いでいたルーシーの姿がない。
ウェンディは、身寄りもない見知らぬ田舎町で、ルーシーを探し彷徨う。

際立ったストーリーラインがあるわけではなく、ルーシーを探しつつ車を修理しようとするウェンディの姿を、街の風景と共に写し撮っていく”だけ”の作品とも言える。
その自然体なスタンスと「盗まれたものを探す」「愛犬の存在」という要素から、ヴィットリオ・デ・シーカの『自転車泥棒』と『ウンベルトD』を混ぜ合わせて、現代アメリカ/女性版にしたような作品だとも思った。ただし、デ・シーカほど主義主張が全面化しているわけではない。

 

演技・演出の自然さと同じく、物語もまたそれに見合った自然さを保っている。とりわけ劇的でもなく、なにも起こっていないようにすら見える。だが、ウェンディにとっては、ルーシーと愛車を失うということは世界崩壊級の大事件なのだ。天涯孤独の身になった彼女を辛うじて「家族」と「家」として繋ぎとめていたのがその二つであり、それらはある日、急に奪い去られた。はたから見ればただの犬、ただの車かもしれないが、この優しくない世界ので、唯一ウェンディの帰れる場所と心許せる存在だったのだ。
ウェンディは、すがりついてでも二つを取り返そうとする。

ケリー・ライカートは、そんなウェンディのよるべなさを見事に表現する。作品を通して「女性だから」という部分を故意に強調した演出はしていないが、それでも十二分に「若い女性が道端で生活するということ」の心許なさが実感として伝わる。社会を誇張して厳しく描いてもいないが、社会は、少なくとも優しくはない。

そして、ファーストシーンと呼応する形のエンディング。行動は同じでも、その意味がどう変わったか。そのウェンディが下した決断こそが、この優しくない社会を物語っている。