リバー・オブ・グラス ケリー・ライカート特集【千文字レビュー】

 

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ケリー・ライカートの映画の登場人物は、いつだって「ジリ貧」だ。

その特徴は自主制作した長編デビュー作『リバー・オブ・グラス』の時点からすでに見てとれる。

 

結婚して子供も三人いる専業主婦のコージーは、退屈な現実からの「映画みたいな」逃避行を心待ちにしていた。そんな折、なんでか銃を持ったそれっぽい男 リーと知り合い(この銃を落としたのは刑事であるコージーの親父)、忍び込んだプール付き邸宅で人を射殺(と、思い込んで)、あれよあれよと待ち望んだ逃避行へともつれこむ。

 

フォーマットとしては「犯罪映画」に則っているが、その顛末はどれも間抜けでガッカリな裏打ち的リズムが続く。「劇的」になりそうな状況も現実には「劇的」になってくれず、ウッカリ放った弾はウッカリ当たってはくれないし、出会った男が人生を掛けるような魅力的なアウトローでもなければ、自分がファム・ファタールってわけでもない。挙句の果てには高速の料金を払えず、料金所でUターンさせられる始末。
イカートはその土俵に立った上で、アンチ・ジャンル映画とアンチ・クライマックスを実行した。それはいつだって男たちのものだった「犯罪映画」を女性視点から解体する行為でもあり、後のライカート作品に通じる「誇張なしの現実認識」をハリウッド・セオリーに適応させた結果でもある。

 

 

ジャンル映画の文脈に乗っている点で、この後のライカート作品とは少し違う作品でもある。いつもよりは物語の筋がはっきり際立つように作られているし、内心モノローグという表現もこれ以降は見られない。


だが、作品から感じる味わいはやはりライカートだ。

イカートの映画において現実は、退屈で、窮屈で、生活はできる程度に残酷だ。逃避行の先にある未来は、具体性を欠いて茫漠と広がっていて、それが希望か不安か、先行きは見えない。あるいはそんな未来なんてもの夢想の産物で、実際はどこまで行っても程よく残酷な現実の延長線上でしかない。

その旅路の中で生活物資も金銭も消耗していくが、なによりも消耗していくのは内心抱いていた「期待」かもしれない。ケリー・ライカートの女性たちは、物理的よりも精神的に「ジリ貧」へと陥っていく。

しかし彼女たちの旅路には、出発への決意も確かに存在する。ケリー・ライカートの映画には息苦しさがつきまとうが、現状に見切りをつけて新天地を目指す力強さもいつも宿っているのだ。